羅刹の囁き(らせつのささやき)

長編ミステリー第二弾「羅刹の囁き」が2020年1月6日より電子書籍として販売となりました。

全7巻になります。

聖女と鬼。穢れを知らないという事は何にでも染まるという事だ。

時代を超え、繋がる運命の糸。深まりゆく謎、鬼は誰なのか?


羅刹の囁き

幕開け

 その人は美しかった。儚(はかな)げなその人が怒るのを見た事は一度もなかった。その人の伴侶は放蕩(ほうとう)で親の決めた許嫁(いいなずけ)のその人が本当は好きだったのにそれを正直に表す事が出来なかった。一緒になってその人の美しさを間近にして増々素直になれなくなった。彼はその人に辛く当たった。その人が優しくすればばするほど自分が惨めになるような気がして日に日に辛く当たった。彼の家は成金でその人は名家の出だった。その事が彼をより卑屈にさせた。愛してもいない男の下(もと)へお金の為に仕方なく嫁いできたのだと思った。彼はよそに女性を旁(つく)り、まるであてつけるかのように酔って家に連れ帰った。それでもその人は怒らなかった。何年も何年もその人は笑い続けた。その人の笑顔はまるで菩薩のように見えた。だが彼にはその笑いは蔑(さげす)みにしか見えなかった。

 彼女は彼が好きだった。子供の頃から病弱だった彼女はいつも自室に一人で過ごすことが多かった。窓の外を元気に学校へ通う同じ年頃の子供達の姿をいつも羨ましく見ていた。その中で一人の男の子の姿が彼女の目に止まった。彼は窓の内側に居る彼女を見ると手を振った。恥ずかしくて彼女は窓の下に隠れてしまった。それでも毎日彼女は窓の外を通るその少年の姿を追った。家からあまり外に出ることは無かったが彼女は、それはそれは,大切に育てられた。まるで穢れを知らないままに彼女は大人になった。彼女の家はとても旧家でこの辺では有名だった。だがただ人がいいだけの善人の父親に財産を守る器量はなかった。家はどんどん落ちぶれていった。そんなところに最近のし上がってきたいわゆる成金とも言うべく家から縁談の申し入れがあった。父親はお金の為に娘を売るという事に抵抗を禁じえなかったが兎も角娘にその話をしてみた。娘が嫌がるならそれもいた仕方が無いことである、この話は諦めよう。いざとなれば家を売れば生活はしていける筈である。そう思っていたが存外、相手方の写真を見せると娘は頬を染めて頷いた。

 彼女は父親の持ってきた縁談に最初は戸惑った。家が大変な事は十分承知している。それでも見た事も無い好きでもない男のところへ嫁ぐという事に抵抗があった。だが家のためには断るわけにはいかないだろうと思って父親の差し出した写真を見た。そこには大人になったあの少年の姿があった。写真を見るなり胸が高鳴った。話はとんとん拍子に進み彼女は彼の元に嫁いで行った。だが結婚した最初の夜、彼は彼女の元を訪れなかった。ドキドキしながら彼が部屋に入ってくるのを待っていた彼女は夜が白む頃までベッドに座ったまま過ごした。彼が彼女の元を訪れたのは結婚して三日目の夜であった。彼は彼女を荒々しく抱くと彼女が意識を失っている間に部屋を後にした。彼が部屋を出て行った後目覚めた彼女は無性に悲しくなって涙が溢れた。それでも彼女は彼の前では決して泣かなかった。きっと自分に何処かいたらないところがあるのだろうと思った。いつも笑っていよう、そうしたらきっと彼の心がいつかは自分の元に帰ってきてくれるかも知れないとそう思った。

 だが彼はいつまでたっても彼女に心を開く事は無かった。

その日もその人は笑っていた。その人に見送られて学校へ出かけた。

家に帰って居間に入った。いつもそこにいる筈のその人がいなかった。なんとなくいつもと違う何かを感じた。寝室に手を掛けてドアをそっと開けた。

 血に塗れた男がクローゼットを背に座っているように見えた。私の好きな淡い藤色の着物を身に着けたその人が振り返った。返り血で真っ赤に染まった顔のその人がこちらを見て微笑んだ。手に握っている包丁から血が滴っていた。

 私は声にならない声で叫びそのまま気絶した。それが私の見た父と母の最後の姿だった。

 

 元々丈夫でないその人はその二年後、獄中死したと聞いた―――。


<続きは「羅刹の囁き Ⅰ」本編にてお楽しみください>

第二章 歪(ひずみ)

一.

 

 あの日から真理子の様子が少し変わったように瑞希は思った。表情や仕種が今までと何処か違うように思う。だがそれは漠然としていて何がどうとかは言えなかった。あの日、見付けた包みはその日はそのまま庭に置いて部屋へ戻った。夜になって杏奈は両親が迎えに来て帰っていった。翌日、目覚めると庭にその包みはもう無かった。真理子に尋ねると秘密の場所に保管したといった。それがどこなのか瑞希や杏奈が尋ねても真理子は答えようとはしなかったので二人はそのうちにそれを聞く事をやめてしまった。

 ただあの時、真理子は、あれは鬼ではなく弟だと口走った。それはどういう事なのだろう。もしその言葉が真実なのだとしたらあの包みの中にあるのはその弟の骸(むくろ)という事なのか。どうしてあんなところに人知れず埋められていたのだろう。一体、誰が埋めたのだろう。弟はいつ、どうやって死んだのだろう。前に赤ちゃんが見えると言っていた事があった。それはその弟の事なのだろうか。弟は生まれて間もなく亡くなったのだろうか。真理子は父親が亡くなってから母と一緒にこの家にやってきたと言っていた。それではその弟はここに来る前に亡くなったという事なのだろうか。ならどうしてこの家の庭に埋められていたのか。真理子の母が亡くなったのは父親が亡くなってから四年後だと確か言っていた。四年も前に亡くなった父親の子を母親が身籠っていた筈もない。もしこの家に着てからの事だとしたらその弟とはいったい誰の――?謎だらけである。

 疑問は山のようにあったが杏奈も瑞希もその事を真理子に聞く事をしなかった。何故か聞いてはいけないような気がした。その疑問はいつか時が来れば分かる、その時がいつなのかは定かではなかったが二人ともそんな気がした。

 夏休みの鬼探しはそれで終わった。三人共、それ以上鬼の探索をしようという気にならなかった。それでも三人は夏休み中しょっちゅう会っていた。何をするでもなかったが三人でいる事が楽しかった。夏休みも半ばに差し掛かった頃のことであった。瑞希が買い物の為に家の外に出るとそこに叔父がいた。顔を見た瞬間、鳥肌が立った。

「叔父さん…ここで何をしているの?」

「やあ、瑞希ちゃん、やっぱりこの家だったのか」

「何の事?」

「いや、瑞希ちゃんが一度も帰ってこないから心配になって様子を見に来たんだよ。住所を聞いてこの家かもとは思ったのだが苗字が違うから…」

「苗字?」

「あの頃は神崎さんというお宅だった」

「あの頃って?」

「否、私が大学生の頃の話だからもう三十年近く前の話だよ」

「叔父さんはこの家を知っていたの?」

「大学の頃にここに住んでいた子の家庭教師をしていた事があるよ」

「そうなの?」

ただの偶然なのか。それでも瑞希はなんだか嫌な偶然だと思ってしまった。

「そうか、真理子ちゃんの家はここなのか。真理子ちゃんも奇麗な子だったよね。ここに住んでいた女の子も随分と奇麗な子だったよ。最もあの頃はまだ中学生だったが」

そう言って笑う叔父の顔に瑞希はぞっとするものを感じた。もしかして真理子に何かするのではないかという不安さえ生まれてくる。

「何をしに来たの」

「だから、言ったじゃないか。瑞希ちゃんの様子を見に来ただけだよ」

「私は元気よ。だからもう良いでしょ」

そう言うと瑞希は叔父を押し退けるようにして開けていた扉を閉めて中に入った。

「随分冷たいじゃないか。折角心配してきたというのに」

そう言ったときの叔父の表情がとても陰湿に感じて瑞希は増々嫌悪を感じた。

「瑞希、どうしたの」

その時、真理子が家の玄関から顔を出すようにして声を掛けてきた。

「あ、真理子」

真理子のいる場所からは足しか見えなかったが門の前に人がいるのが見えた。真理子は玄関の階段を下りて瑞希の方へ近寄った。門の外側に男性がいた。どこかで見た事がある。前にチラッとだけ見た多分瑞希の叔父だと思った。

「瑞希の叔父さん、よね?」

「え、ええ」

「やあ、君が真理子ちゃんだね」

「はい、こんにちは」

「今日は瑞希ちゃんの様子を見に来たのだよ。全然帰ってこないのでね」

「お、叔母さんには時々電話入れているから」

「でも私とは全然話していないじゃないか」

何となく歯切れの悪い瑞希を見て真理子は瑞希がこの叔父をあまり歓迎していない事を感じ取った。

「私達、これからちょっと出掛けるんです。ご心配掛けてすみません、瑞希に何かありましたらちゃんと連絡しますので」

真理子の言葉に叔父は少し不服そうな顔をしたが所在無げに両手を上げて仕方ないと言った様子で帰って行った。

「瑞希、大丈夫?」

「大丈夫よ」

「瑞希はあの叔父さんの事があまり好きじゃないのね」

「分かっちゃった?さっすが真理子ね」

「今の瑞希見ていたら私じゃなくても分かるわよ」

「バレバレ」

「何か、理由があるの?」

「ううん…」

瑞希の感じている叔父の邪(よこしま)な感情は何も証拠が無い。瑞希の邪推に過ぎないかもしれない。ただの邪推で育ててくれた叔母にも迷惑が掛かるような事は軽々しく口には出せない。

「ただ…何となくってだけ」

「そう」

そう言って瑞希を見た真理子の目は何もかも見透かすような目に見えた。元々真理子はしっかりしていて人をよく見ているようなところがあったがあの埋められていた包みを見付けてからは一段と大人びた感じに見えた。何かが変わった、やはりそんな風に感じてしまう。だがそれでも真理子は真理子である。大好きな友達である事には変わりない。現に今も真理子のお陰で叔父は帰ってくれた。

「あ、でも叔父さん、昔、この家に来た事があるらしいよ。さっきそう言っていた」

「昔って」

「え…っと、三十年くらい前だって。この家の子の家庭教師をしていたって」

「じゃ、この家の前の持ち主かしらね。家庭教師をしていた子ってあの蔵にあった絵の子かしら」

「あ、そうかも。奇麗な子だったって言っていたから」

「そうなんだ。なんだか不思議ね」

「うん」

「あ、それより買物は?」

「あ、忘れていた。行って来る」

「一緒に行く?」

「ううん、良い。この辺もう殆ど覚えたから大丈夫」

「じゃ、お昼ご飯用意して待っているね」

「うん、ありがと」

そのまま瑞希は駆け足で外に出て行った。瑞希の姿が見えなくなる前に真理子は家の中に入った。リビングを通り抜けてあの部屋に入った。正面にあった母の絵を動かすとその後ろからあの時、庭で見つけた包みが顔を出した。真理子はあの翌日早くに起きて窓からこの部屋に入り扉の鍵を開けたままにしていた。この子を母の傍に置いてあげたいと思った。土に塗れた黒いビニールをはがすと中から木箱が出てきた。その木箱には錠が掛けられていた。鍵は見付ける事が出来なかった、なので新しい毛布にそれを包んで母の肖像画と一緒にここへ置いた。いつか事が成就すればちゃんと埋葬してあげよう。そう思っていた。

――これからだね――

耳元でいつもの声が聞こえた。

(ええ、これからね)

心の中でそう返事をして前を見た真理子の顔は毅然としていて実際の年よりずっと上に見えた。

 母に遣いを頼まれて帰って来ると玄関先でヒステリックな女性の声が聞こえてきた。誰だろうと思いながら杏奈は玄関の方へ歩み寄った。甲高い声で母に言い寄っている女性の声とは裏腹に母の声は意外と穏やかだった。

「何の事を仰っているのか分からないわ」

「惚けないで、あの時の電話の事よ。あれは、あなたでしょ」

杏奈は玄関の横に廻ってその女の顔を窺った。父と一緒に居た女である。

「あんな事で私が怯むと思ったら大間違いよ」

(電話…?)

もしかしてあの夜、杏奈が受けた電話の事であろうかと思った。

「あの時は私も冷静でなかったからちょっと驚いたけれど別に臆したわけじゃないから。何を使ってあんな声を出していたのか分からないけれどあんな子供騙しの脅しで引っ込んだりしないわよ」

「脅すって、私があなたを脅す必要がどこにあるのですか」

「じゃ、あれはどういう事なのよ」

「だから、何の事か私には分かりません。それに、いったい何の用なんですか。もうじき娘が帰ってきますのでお引取り下さい。あなたとお話する理由は私には何もありません。御用がおありなら主人にどうぞ」

「そのあの人が捕まらないからわざわざここまで来たんじゃない。あなたが邪魔をしているんじゃないの。私と連絡を取れないように」

「私は、何も。連絡が取れないとしたらそれが主人の意思なのでしょう」

「分かっているの、それがどういう事か。会長が亡くなった今、専務にこの事が知れたらご主人がどうなるのか」

「あの人もそれは覚悟の上でしょう。それでも良いと思っているのだと思います。私も同じ意見です」

難く握り締めた女の拳が震えるのが分かった。

「あなたを殺人未遂で警察に突き出す事だって私には出来るのよ。そしたらこんな家庭メチャメチャになるわよ」

「どうぞ、ご随意に。でも可哀相な人」

「何、どういう事、何を言っているの」

「私は自分のした事はちゃんと責任を取る覚悟も出来ています。警察に自首しても構いません。でも、それでも私と主人と娘が離れる事はありません。私達は家族ですから。でもあなたには何も無い。そんな風に居丈高に喚いて、力でねじ伏せても誰もあなたを愛したりはしない。愛情の無い人を自分に無理やり縛り付けても空しいだけだと思いませんか」

「な、何を…」

母の言葉に女は返す言葉を失ったかのようにその場に立ち尽くした。母は随分強くなったと杏奈は思った。

「でも、私もその事に気が付いたのはつい最近なんですけどね。一歩間違ったら私もあなたのようになっていたかもしれない。一緒にいる事が当たり前になり過ぎて、自分の思いと噛み合わない事を受け入れられなかった。主人があなたとそうなってしまった事にはきっと私のそんな傲慢な思いが息苦しかったのかも知れません」

「い、今さら、何よ。そんな殊勝な事言ってはぐらかそうとしたってそうはいかないから」

「今後の事は主人とお話下さい。私は全てを受け入れますから。どうぞ、お引取り下さい。そして、もうここへは来ないで下さい」

そう言うと母の手が女を押し除けるようにしてその鼻先でドアを閉めた。

「ちょっと、開けなさいよ」

女は暫く喚いていたがドアが開く事はなかった。以前の母なら近所の事を考えて中に入れていたのではないかと思うがそうしなかった。微動だにしないドアに女はドアを叩くのをやめて深く息を吐いた。

「折角見付けたと思ったのに…」

女は肩を落としてそう言った。諦めて帰り掛けた女の視線が杏奈を見た。

「あら、ここのお嬢さん?」

女は不自然な笑みを浮かべて杏奈に近付いた。

「え、ええ」

「今の話聞いていたの?」

「い、いいえ。私は何も」

「そう、じゃ、良い事教えてあげる。あなたのお母さんね、人殺しをしようとしたのよ」

女は杏奈の耳元で囁いた。杏奈の中で何かが蠢(うごめ)く様な感じがした。黙ったまま立っていると女は尚も喋り続けた。

「驚いた?そりゃそうよね、人殺しですものね。おー怖い、怖い。あなたもそう思うでしょう。あんなお母さんと一緒にいたらあなたもどんな目に合わされるか分からないわよ」

黒い塊が杏奈の胸の中でモクモクと起き上がろうとしている。自分の中の箍(たが)が外れるような奇妙な感覚に襲われた。ずっと昔にも同じような感覚を持った事があるような気がした。あれはいつの事だったのか――毒が口から溢れそうな感じがして杏奈は思わず口を開いた。

「お、おま、」

言葉が口から発しようとした時に後ろから父の声が聞こえた。

「君、こんなところで何をしているんだ」

「お父さん」

振り返った杏奈の真後ろまで父は来ていた。父の顔を見ると女は気持ちの悪い、しなを作って父の元へと寄った。

「あなたが全然連絡取れないからここに来たんじゃない」

「今、会長が亡くなって会社は大変なんだ。そんな事くらい君も分かっているだろう。それに俺はもう君とは個人的に会うつもりはない」

「何よ、それ。そんな事言って良いの」

「この前も言っただろう。君の好きにしろ、って」

「あなた、私から離れられると思っているの。お嬢さん、この人はね私の事を何度も何度も抱いたのよ。私の身体に溺れたくせにそんな偉そうな事言えると思っているの」

杏奈の方を見ていやらしい笑みを浮かべるその女を杏奈は心底醜いと思った。

「よさないか!子供の前で」

「あら、だって本当の事じゃないの」

「杏奈、家に入っていなさい」

父が杏奈を見てそう言ったので杏奈は女の横をすり抜けて家の中に入ろうとした。が、女はその杏奈の腕を掴んでその手を自分の腹に当てた。

「何をしているんだ。娘を放せ」

「だって、この子にも関係があるでしょう。ここにこの子の弟か妹がいるのよ」

その言葉に父は顔色を変えた。杏奈は慌てて女の手を払ってその腹から手を離した。指先に振動が残っている。

「今、何て言った」

「だから、ここにあなたの子が居るのよ」

女は自分の腹を撫でながら得意げな顔でそう言った。

「まさか、そんな事…」

「だから早く連絡を取りたかったのにあなたが私の事を無視するからよ。もう手遅れですからね。私、産むから。一生、面倒見て貰うわよ」

父は呆然とした表情でそこに立ち尽くしていたが暫くすると気を取り直したように口を開いた。

「分かった…ちゃんと話をしよう。もしそれが本当なら責任は取る」

「勿論、本当に決まっているじゃない」

「杏奈、家に入りなさい。お父さんはこの人と少し話をしてくる。お母さんにはまだ言わないでくれ。お父さんが自分でちゃんと話すから。良いね」

杏奈は黙ったまま頷いた。

「あら、私は奥さんも交えて話しても良いのよ」

そう言いながら女は父の腕に絡みつくようにしな垂れかかった。見ていて胸が悪くなった。

「お父さん…」

「大丈夫だよ、杏奈は何も心配しなくて良いから。すぐに帰るからお母さんとうちで待っていてくれ」

「うん…分かった」

女は嬉々とした様子で父と一緒に歩いて行った。杏奈はすぐに家に入る事も忘れてその後姿を見ていた。一度収まった胸の中の黒い塊が再び大きくなりそうな気がした。何メートルか進んだときに女が父の肩越しにこちらを振り返った。その顔には勝ち誇ったような笑みが浮かんでいた。家に入った杏奈は玄関に立ったまま母が今の話を聞いていない事を祈りながら家の中の様子を伺いながら気持ちを落ち着かせた。すると中から母が出てきた。

「あら、杏奈。今帰ったの?」

「う、うん」

「どうしたの、なんだか顔色が悪いみたい。もしかして外で誰かに会った?」

「う、ううん。誰にも会ってないよ。ちょ、ちょっと走ったせいかも」

杏奈の返事に母は小さく頷いて微笑んだ。

「そうなの、そんなに急ぐ事も無かったのに」

変わった様子は無い事に胸を撫で下ろした。子供の出来ない母が今の女の話を聞いていたらどんな気がするだろうかと思うと胸が痛くなった。そしてあの女への憎悪が生まれた。

(あんな女、本当に死んでしまえば良い)

そして自分がこんな事を思ってしまう事に驚いた。杏奈の中で自分でも抑えられない感情がある事を初めて知った。


<続きは「羅刹の囁きⅡ」本編にてお読みください>

第三章 過去への扉

一.

 瑞希は吉岡に電話して夏休みの間にお手製の晩御飯に招待するという旨を伝えると電話の向こうの吉岡の言葉が止まった。

「え、なんで黙るの?」

「意味がよく分からない」

「意味って、そんな難しい話していないよ。今度晩御飯作るから弟と妹を連れて真理子のうちに来て頂戴って誘っているだけだけど」

「君が作るの?それとも譲原?」

「三人で、だけれどメインは私が作るよ」

「三人って柏木も一緒?」

「勿論、って誰が作るのなんてどうだって良いじゃない。それとも私が作ったご飯は食べられないとでも言う気?」

「そんな事言う気は無いよ。勿論食べるのなら美味しい物にこした事はないけど大概の物は食べられるし弟も妹も好き嫌いはないし、どんな物も文句を言わず食べる癖は身に付いているから」

「それってなんか引っ掛かるなあ。ま、良いけど。で、いつなら都合が良い?みんな吉岡君の都合に合わせるって言っているし」

「否、だから、そもそもなんで俺達兄弟が譲原の家で君達の手料理に呼ばれるのかが分からないのだけれど。どうしてそんな話になっているの」

「特別な理由は無いけど、理由が無いと駄目なの?」

「別に駄目って訳じゃないけど、普通理由あるんじゃないの。俺、君達とそんなに親しいわけじゃないし」

「だって、クラスメイトじゃん。困った時はお互い様」

「増々分からない。俺は何も困っていなし」

「だってお手伝いさんの食事、あまり美味しくないって言っていたじゃない」

「俺はそんな事は言っていない。栄養バランスの良さと味は比例しないと言っただけだ」

「それってそう言う事でしょ」

「食べられないわけじゃない。彼女は一生懸命やってくれている」

「ああ、もう面倒臭いなあ。取り敢えず食べに来てよ。美味しいビーフシチュー用意して待っているから」

「ビーフシチュー!」

ビーフシチューと聞いて吉岡の声のトーンが上がったような気がした。

「弟、好きだって言っていたでしょ」

「え、あ、ああ。まあ、君がそれ程言うなら行っても構わないが」

(あれ?)

ビーフシチューが好きなのはもしかして吉岡自身なのではないかと思った。だが敢えてその事を瑞希は口にしなかった。何か言うとまた変な理屈を並べられそうな気がしたからである。

「で、いつ来る?」

「そうだな、今週はもう夜の献立を汐(しお)さんが考えてくれているから来週なら」

汐さんというのは家政婦さんの名前である。吉岡と話しているとその名前がちょいちょいと登場するので瑞希は覚えてしまっていた。

「分かった。じゃ、え…っと、来週の水曜ぐらいでどう?」

「ああ、分かった。予定に入れておくよ。でもなんで譲原のうちなんだ?」

「え、あ、言ってなかったっけ?私、夏休みの間、真理子んちにいるの。ちょっと色々あってね。あ、それと吉岡君にもちょっと相談したい事があるのだけれど」

「相談?」

「それはまあ、来た時に。結構複雑な話なんで」

「もしかしてそっちがメインか?」

「あ、ううん。違うよ、それはおまけ」

「おまけねえ、ま、良いよ。じゃ、来週」

「うん、待っているからね」

 そして翌週の水曜の夕方、吉岡は弟と妹を連れて真理子の家にやってきた。チャイムが鳴って外の扉のロックを外すと瑞希は玄関まで迎えに出た。

「いらっしゃい」

エプロンをしている瑞希を見ると吉岡はまるで不思議な物でも見るような顔をしたがすぐに気を取り直したように話した。

「お言葉に甘えて弟達も連れてきたよ」

「こんにちは、お邪魔します」

小学六年生になる弟は人懐っこい笑顔で挨拶をした。吉岡とは余り似ていない感じである。妹の方は吉岡の影に隠れるようにしている。

「こんにちは。え…っと、俊介君だったわね。それで、こっちが美帆ちゃん」

瑞希はそう言って妹の方の頭を撫でた。すると女の子は嬉しそうに笑った。

「へえ?」

その様子に吉岡が思わず声を出した。

「何?」

「いや、美帆が初対面の人間に対してそんな風に笑うのは初めて見る」

「そうなの?子供には私の優しさが伝わるのかな」

そう言って瑞希が腰に手を当てて威張る振りをすると吉岡は大きな溜め息を吐いた。

「何よ」

「嫌。それにしてもこの屋敷は…」

吉岡はそう言うと家の中を見回した。

「何?」

「否…何でもない」

何か言いたそうに見えた。

「吉岡君って霊感とかある?」

「霊感?そんな物は無いよ。だいたい霊なんて非現実的な物を信じる気にはなれない。だが、」

そう言って吉岡は妹の美帆の方にチラッと視線を流した。

「だが、何?」

「否、別に」

「何よ、さっきから。今日は歯切れが悪いわね」

「そう言うわけじゃないさ」

「瑞希―、何しているの。早く、こっち」

リビングから顔を出した杏奈が玄関にいる瑞希達に向かって手を振った。

「あ、すぐ行く。ほら、中入って」

「あ、ああ。じゃ、お邪魔するよ」

「良い匂い。兄ちゃん、ビーフシチューの匂い!」

玄関まで漂ってくるシチューの香りに弟の俊介は鼻をヒクヒクさせながら嬉しそうにそう言うと前に出た。

「腕によりをかけて作っているから楽しみにしていてね」

「ほんとうにおまえが作っているのか?」

瑞希の言葉に吉岡は不審そうな声で尋ねた。

「そうよ、そう言ったじゃない」

「こんなにエプロンの似合わない女子を俺は初めて見た気がする」

ボソボソと呟きながら瑞希の前を妹の手を引きながら通り越していく吉岡を瑞希は腰に手を当てたまま睨むように見たが吉岡はまるで見ない振りで奥へと足を運んだ。リビングの入り口に立つと吉岡の腕に縋りつくようにしている美帆の姿が一段と不安そうに見えた。

「どうしたの、美帆ちゃん?」

瑞希が後ろから声を掛けると美帆は唇を噛み締めるようにして振り返った。まるで何かに怯えているかのような表情である。瑞希は吉岡の顔を見上げた。

「大丈夫、何も起こらないさ」

吉岡は美帆に向かってそっとそう言った。その言葉に美帆は小さく頷いた。

「どういう事?」

瑞希も小さな声で吉岡に尋ねた。

「何でもない。美帆はちょっと神経が過敏なところがあるだけだよ」

そんな二人を後ろにとっくに中に入った俊介はキッチンにいる真理子の横にいって甘えるような表情で真理子を見上げていた。

「こんにちは。今日はご招待ありがとうございます」

「あら、こんにちは。えっと、お名前は?」

「俊介。いつも兄がお世話になっています」

「こちらこそ、私は真理子よ。今日は来てくれてありがとう。」

「真理子お姉ちゃん、すっごい美人だね!」

その様子を見て瑞希は、俊介はやはり兄とは全然違うタイプのようであると思った。

「あら、ありがとう。吉岡君、いらっしゃい」

俊介の言葉に微笑んで頷くと真理子は吉岡の方を見た。

「あ、ああ、お言葉に甘えてお邪魔させて頂くよ」

「今日は吉岡君達の為に瑞希が張り切っているのよ」

横で冷蔵庫から野菜を取り出す為にしゃがんでいた杏奈が立ち上がりながら言葉を付け足した。

「わ、私は別に張り切ってなんか」

「そりゃそうだ、君はあまり張り切らない方が良い」

表情も変えず瑞希の言葉にそう返す吉岡に瑞希は少し眉を吊り上げた。

「ちょっと、それ、どういう意味よ」

「否、あまり深い意味は無いよ。言葉通りだ」

「なんか一々引っかかるんだけど?」

「君は被害妄想の気(け)もあるのかな」

そのやり取りを見ていて杏奈と真理子は顔を見合わせて笑った。

「ねえねえ、二人はいつもそんな感じなの?」

「そんな感じって?」

「だって、ねえ」

瑞希が問い返すと杏奈と真理子は再び顔を見合わせた。

「すっごく仲が良い感じ」

「まさか!」

杏奈の言葉に吉岡と瑞希は同時に声を出した。それを聞いて杏奈も真理子も増々可笑しそうに笑った。

「で、その後ろに隠れている子は、妹さん?」

真理子が吉岡の後ろにいる女の子の方に視線を移して尋ねた。

「ああ、妹の美帆だ。ちょっと人見知りでね」

「こんにちは、美帆ちゃん」

杏奈が吉岡の傍に近寄って手を伸ばそうとすると美帆は身体を固くしたように増々兄にしがみ付くようにした。その様子を少し見てから吉岡は妹の方を見た。

「大丈夫、今は心配する必要無さそうだ」

吉岡の言葉に美帆は不安そうな顔を覗かせた。杏奈はしゃがんで美帆の前に進んだ。

「いらっしゃいませ、美帆ちゃん」

「こ、こんにちは」

美帆は小さな声でそう応えた。

「今日はゆっくりしていってね。もう少しでお食事の支度が終わるから。お兄さんとそこのソファーに座って待っていて。ゲームもあるから」

「ありがとう」

「さ、吉岡君もゆっくりして。瑞希、シチューの加減見て。私、サラダ作るから」

「うん、分かった」

リビングの方へ移動する吉岡に連れ立って中に入りながら瑞希はそっと吉岡に尋ねた。

「ねえねえ、さっきのどういう意味?」

「さっきのって?」

「今は心配する必要ないって」

「ああ、それ…ね。君達は三人でいると絶妙なバランスを保っているようだ」

そう言うと吉岡は妹の手を引いてリビングの中央に進んだ。瑞希は吉岡の言葉の意味が分からず少し首を傾げた。だが吉岡はそんな瑞希に目もくれなかったので瑞希は取り敢えずキッチンの方へ戻ろうとした。その時、美帆が吉岡にそっと耳打ちするように言った言葉が聞こえた。

「お兄ちゃん、あの窓のところにいる女の人は何しているの?」

(え?)

その言葉に瑞希は窓の方へ目をやったがそこには誰の姿も見えなかった。


<続きは「羅刹の囁きⅢ」本編にてお楽しみください>


第四章 因縁

下川文子

一.

 昭和十年、八月の猛暑に文子は生まれた。東京の下町で育ったが両親は小さな店をやっていて商売はそれなりに繁盛していて遅くに出来た文子を両親は大層可愛がり裕福とまではいかなかったが暮らしに困る事は無く、近所の子達よりは遥かに良い暮らしをしていた。

 だがその暮らしは長くは続かなかった。昭和十四年(一九三九年)九月一日から始まった第二次世界大戦は昭和十六年(一九四一年)十二月八日、日本軍が行った真珠湾攻撃を皮切りに太平洋戦争となり日本中が戦争の渦の中へと巻き込まれていった。それでもまだ両親の元にいた時は、そこそこ食べる物もあたりそれほどの不自由は感じていなかった。

 真珠湾攻撃の翌年に文子は国民学校に入った。この年、ミッドウエー海戦で日本軍は壊滅的な打撃を受け、翌年には山本五十六連合艦隊司令長官が戦死し、日本の戦争状況は敗戦へとまっしぐらに進んで行くが多くの国民にはその事は知らされていなかった。

 昭和十九年(一九四四年)の暮れから東京は度々の空襲に襲われ文子はその度に右往左往しながら両親と防空壕へと走った。空襲警報に怯える日々であったが後々振り返ってみると両親と共に過ごしたここの暮らしが文子にとっては一番幸せな時期であった。翌年の二月に文子は学童集団疎開で両親の元を離れる事になった。三年生以上の者はほぼ強制的に疎開さされる事になったのだ。

 疎開先での暮らしは今迄と一変した。食事は大根の葉を混ぜたシャバシャバの粥と野菜の煮つけばかりであった。それすらもあたらない日が有り生まれて初めてひもじいという思いを知った。始めのうちは家から少しばかりでも食料が送られてきてそれを口にする事も出来たが送られてきたうちの半分以上が文子の口に入る事は無かった。寝るところもお寺のお堂ですし詰めのように子供達が寝かされた。文子の父は若い時に足を怪我して徴兵を免れていた。その事で非国民扱いされ虐めにもあった。早く家に帰りたい、そればかりを願って過ごしていたがその願いが叶う事は終に無かった。この年の三月十日、東京は大規模な空襲に襲われた。いわゆる東京大空襲である。この空襲によって文子は帰る家と両親を亡くした。だが家が無くなった、両親が死んだと言われても何の実感も湧かない。今のようにテレビが普及していたわけでもなくその様子を窺い知る事など出来ない。東京が焼け野原になったなどという事は誰も信じられなかった。

 文子は毎夜のように両親が迎えにくる夢を見た。その度に死んだと言うのは嘘だったのだと安堵する。だが朝が来て夢だったのだと分かりはらはらと涙する。だがゆっくり泣いている暇は無い。朝の支度に遅れると食事が当たらない。三日も何も食べずに過ごすという事は珍しい事ではなかった。ある者は手製のパチンコで雀を取ったり虫を拾ったりして食べる。食糧難は続き地元の子でさえ満足に食べられないのに疎開の子を食べさすゆとりは村には無く状況は悪くなるばかりであった。

 この年の八月十四日、日本政府はポツダム宣言の受諾を連合国各国に通達し翌十五日正午、玉音放送により日本の降伏が国民に知らされた。それと共に疎開は終了を向かえ親が生きている者は迎えが来た。親がいなくて断られた親戚に何度も手紙を出して迎えに来て貰う子もいた。身寄りが死んでしまって迎えの来ない子も先生と一緒に東京へ帰りたがったが受け入れては貰えなかった。引き取り手のない孤児は養子に出すのがこの頃の国の方針であった。そしてこの当時、農家から養子の申し入れが多数あった。食料が無かったので人々は列を成して農家に食料を求める。この為農家では生産が追いつかず人手不足であった。名目は養子であったが実際にはただで雇える人手でしかなかった。

 本人の意思は構わず疎開を早く終了させて戻りたい教師は養子先がどういうところか細かく調べる事もなくさっさと養子縁組の話を纏めていった。文子もその中の一人であった。

 養子先では当然のようにそこの子供のような扱いをされる事は無く学校へも行かせて貰えず朝早くから夜遅くまで掃除、洗濯などの女中仕事に畑仕事、子守をさせられ寝るのは馬小屋、食事は土間で一日に一度粗末な物を与えられるだけであった。仕事が遅いと殴ったり蹴ったりされるのは日常茶飯事の事であった。身体は痩せ細り、いつ怒鳴られるかと毎日ビクビクして過ごしていた。

 そんな生活が二年程続いた夏の最中(さなか)、文子はその家から逃げ出した。

 山の中で、川辺で野宿し、山の実や雑草を摘みながら飢えを凌ぎ、文子は東京へ向かった。もしかしたら両親はどこかで生きているかも知れないという絶望的な希みを捨て切れないでいた。両親は怪我をして動けないのかも知れない。だから迎えに来られなかったのだ。食べ物が無く気の根っこも葉っぱも齧(かじ)った。時には毒性のある物を知らずに食べたせいか、腹痛と嘔吐、発熱を繰り返した。それでもあの養子先で過ごした二年間よりは遥かに楽であった。疎開先も最初の頃はまだましだった。だが親が死んだ事が分かると引率の教師も厄介者を背負(しょ)い込んだように当たりがきつくなった。親の生きている者と死んだ者では雲泥の差が有った。親が迎えに来てくれると思えるだけでも幸せな事であった。親がいない子は何処かへ飛ばされる(養子に出される)と戦々恐々で不安に怯えながらみんな暮らしていた。養子に出される事がどういう事かは薄々みんな気が付いていた。泣いて東京へ一緒に帰りたいと願う子も大勢いた。文子もその一人だったが誰の願いも聞いては貰えなかった。元々、文子達を引率してきた教師は親には諂(へつら)っていたが子供達には暴君とも言えるような教師であった。逆らう者は殴られ、食事を抜かれたりされた。親から送られてくる物資も点検と称して目ぼしい物は大方教師が横取りした。しかし子供達には十分な世話をして貰っているという手紙を親に無理やり書かせたりしていた。それでも疎開先ではまだ学校へは行かせて貰えた。学校が唯一の息抜きであった。よその疎開組みに聞くと良い先生もいる。当たりが悪かったと思うしかないが当時まだ十才の文子には先生の善し悪しなど分からない。ただただ家にいた頃の幸せな生活を懐かしんでは泣くばかりであった。

 養子先での生活は疎開の時より更に過酷であった。寒い冬場でも夏場と同じような服しか与えられず馬小屋の藁で寒さを凌ぎながら寝る。一日一食の食事で腹が膨れる事はまずない。暗い土間に座り、襖の向こうで囲炉裏を囲んで賑わっている声を聞きながら一人それを貪(むさぼ)り食べる。風呂も殆ど入れず近くの川で汚れを落とす。そして家の者には臭いから近付くなと言われ自分より年端かの子からさえも馬鹿にして蔑み笑われた。家人の言うようにもしかして自分は本当に家畜以下なのではないかとさえ思えてくる。毎日殴られたり蹴られたりするので痛みも慢性化している。もう逃げ出すという気力さえ無くなり掛けていた時に偶々この家に立ち寄った女性の顔に母の面影を見た。

 その女性は文子を見ると痛ましそうな顔をして朝、殴られたばかりの文子の頬に持っていた手拭いを湿らせて当ててくれた。そんな事をされているのを家人に見られたらきっともっと殴られる。文子は慌てて離れようとしたがその女性はその手拭いを文子の手にそっと握らせて微笑んだ。すぐに家人が戻ってきて文子は逃げるようにその場を離れたがその女性の顔が忘れかけていた母の顔を思い出させた。

(お母ちゃん…)

自分にも母がいた。家畜などではない、人間なんだと思った。その夜、文子はその家を飛び出した。ここにいては本当に家畜になってしまうと思った。土間に置いてあった野菜を持てるだけ持って何処にまだそんな体力が残っていたのかと思う程走り続けた。もし家人が野菜を持って逃げたのに気が付いたらすぐに追いかけて来るだろう。捕まったらどんな眼に合わされるか分からない。文子は死に物狂いで朝まで走り続けた。何処をどう走ったのか分からない。兎に角あの家から一歩でも遠くへ行かなければいけない。瞼に母の笑顔を思い浮かべながら私は人間なんだ、そう叫び、泣きながら走った。


<続きは「羅刹の囁き Ⅳ」本編にてお楽しみください>

三. 東間(あずま)紗江子(さえこ)

       一.

 紗江子は厳格な祖母に厳しく育てられた。家は旧家ではあったがそれ程裕福ではなかった。それでも祖母の倹約と質素な暮らしのお陰か食べるのに困る程でもなかった。祖父は祖母と結婚した翌年に戦争に赴きそのまま帰らぬ人となったと聞かされている。祖母は終戦の年に紗江子の母を生んだ。だがその紗江子の母は十九の時、祖母の反対を押し切り、家を飛び出すような形で結婚をして紗江子を産んだ、なのに相手の男は紗江子が生まれて何ヶ月も経たないうちに別の更に若い女といなくなった。一人になった紗江子の母はパートや内職をしながら紗江子を育てていたが紗江子が三歳を迎えた年に職場で知り合った妻子持ちの男とパート先のお金を持ち逃げして行方をくらました。小さなアパートで一人残されて保護された紗江子を、連絡を受けた祖母が迎えに来た。パート先ではいなくなった従業員が紗江子の母とそういう中になっていたとは気が付いていなかったのですぐにアパートに見に来る事がなかった。紗江子の母はパート先には一週間程休むと連絡してあったらしい。その為、紗江子は誰もいないアパートの一室で一人、何日も過ごした。

 幼いながらにその時の事はよく覚えている。何日も帰らない母を待ち、口に出来るものは何でも食べて飢えを凌いでいた。そんな日が何日続いたのかは定かではない、お腹が減ってフラフラと外に出た痩せ細った紗江子を見咎めた近所の人が通報して母親がいない事が発覚した。紗江子が初めて祖母に会ったのは収容された病院であった。骨と皮のような貧弱な身体した紗江子を一瞥すると祖母は大きな溜め息を吐いた。

「厄介だこと…」

その時に祖母が放った言葉の意味は分からなかったがその言葉はいつ迄も耳に付いて離れなかった。祖母に手を引かれて病院を出た。病院から家迄の長い距離を歩いて帰った。

「無駄なお金はないのよ。食べる為には節約しなくてはいけないの」

歩きながら祖母はそう言った。それでも食べ物が無くて何日も過ごしたあの暗いアパートの一室に比べれば白いご飯を食べさせてくれる祖母の存在はそれだけで絶対的な存在であった。この人に逆らったらご飯が食べられないと幼い紗江子はそう思った。

「きちんとしなさい、あなたのお母さんのようになるんじゃありませんよ」

それが祖母の口癖だった。祖母にとって母は実の娘ではあったがふしだらでだらしのない人間に他ならなかった。育て方を間違ったと祖母は度々口にした。その分、紗江子には厳しくなった。祖母が厳しく育てたせいか紗江子は何処に行っても行儀の良い子と誉められた。だが祖母に誉められる事は一度も無かった。祖母にとってきちんとする事は当たり前の事でしかなかったのだ。学校でも紗江子は口数の少ない大人しい子であったが成績はトップクラスであった。真面目で成績の良い紗江子は教師達の受けも良かった。そして成長するにつれその容姿は際立っていった。中学生の頃から教師でさえその目で見られるとドキッとしてしまうほど男を惹き付ける何かがあった。そんな紗江子を祖母は当然快くは思わなかった。母親の二の舞をするのではという危惧が増して祖母の紗江子に対する風当たりは増々強くなった。自分の容姿をまるで意識しているわけではないのに同級生や上級生、通学路で会う学生達に何度も声を掛けられたり、痴漢にあう事も珍しい事ではなかった。見ず知らずの男に後を尾けられたり追いかけられたりして息を切らして家に帰っては祖母の逆鱗(げきりん)に触れた。

「あなたが男を誘うような目をしているからそんな目に合うのよ。それじゃあなたの母親と一緒でしょう!」

紗江子は自分の中にあのふしだらでだらしない(いつも祖母がそう言っている)母親の血が流れているせいで男達に尾け回されるのだと思った。祖母にそう言われる度に自分の血が忌まわしくなる。

「ごめんなさい、おばあ様」

「これ以上、私に恥をかかさないで頂戴。目立たず慎ましく自分を律して生きなくてはいけません。親子二代で私を裏切るような事は決してしないで頂戴ね」

「はい、おばあ様」

紗江子は祖母の言いつけを守り夏の暑い日でも長袖を着、出来るだけ肌を露出させないような格好をした。自分にはあの母の忌まわしい血が流れている、決して目立つような事はしてはならない。いつもそう思っていた。中学に入って紗江子は美術部に入った。小学校の頃から物を作るのが好きだった。美術部の部員はとても少なくて時には紗江子一人で放課後物造りに没頭している事があった。小学校の頃から美術工作が好きだった。何かを作っている時は何も考えずそれに集中出来る、まるで自分一人の世界にいるような落ち着いた気持になれる唯一の時間であった。それは高校へ入っても変わらず続いた。作品を作る事に集中し過ぎて時間を忘れ見回りの先生に声を掛けられる迄残っていて帰宅が遅くなり祖母に叱られる事もしばしばあったがそれだけは直らなかった。でも紗江子のデザインした造形品が度々賞を貰ったり、新聞にも取り上げられ祖母も段々とその事に対しては文句を言わなくなった。それと言うのも新聞に取り上げられたお陰で祖母の教える書道教室の生徒やその親達にもその事が知れ、紗江子の事で賛辞の言葉を受ける事が何度かあって認めざるを得なかったという事もあった。その代わり成績だけは下げないようにと毎日のように言われ、紗江子は祖母の言葉通り高校三年間ずっと学年トップの成績を保った。美人で成績も良い紗江子は当然のように学内で注目を浴び、生徒会の役員とかにも推薦されたりしたが人前に出たり、喋ったりする事が苦手な紗江子は一度もそれを受ける事はなかった。

 成績が良かったお陰で大学は奨学金を受ける事が出来ると教師に言われた。祖母は進学には反対はしなかったが紗江子が美術大学の進学を希望するとそれには難色を示した。

「中学や高校で何度か賞を貰ったからと言って、それで食べていけるような世界じゃないでしょう。私は女が教育を受ける事に否は言わないわ。これからの世の中、女も自分で食べていける能力は必要だと思うし、それに男を頼ってしか生きられないような低俗な女が私の血を引いていると思うとゾッとしますからね、あなたの母親のように。だからって美術大学に行って将来、一体なんの役に立つと言うの?それならば経済学とか、理数系に進んだ方が良いところに就職出来るでしょうに。あなたの成績なら何処の大学でもいけるって先生も仰っていたでしょう」

何度となく祖母にそう言われたが紗江子は美術大学以外の進学を考える事が出来なかった。造形は紗江子にとって唯一自分の存在価値を信じられる世界であったから、それだけは奪われたくなかった。紗江子の才能を買っていた高校の教師も一緒になって紗江子の進学を応援してくれ祖母の説得に当たってくれた事もあって祖母もとうとう折れた。これが、紗江子が初めて祖母に逆らった出来事であった。そしてこの進学がこれから先の紗江子の運命の明暗を分ける岐路となった。

 大学三回生になった時であった、紗江子が学校に居残って造形品を作っている時に二級下の学生が部室に入ってきた。彼は造形ではなく絵画を専行していた。

 その学生を初めて見た時、紗江子は思わずドキッとした。こんな感覚は初めてであった。彼は人懐っこい笑顔で紗江子に話し掛けてきて紗江子の造っている作品に対して質問してきた。

「これは何を表しているの?」

「光」

アルミと硝子を組み合わせて直線と曲線を交互に天に向かって伸びるように面が合わさっているその作品は窓から差し込む光を浴びて七色に光って見えた。

「光…ふーん、何かもっと違う物に見えた」

「違う物って?」

人と話す事が苦手な紗江子だがこの男性とは初対面であるにも関わらず何故か普通に会話する事が出来た。

「何ていうのかな…そう、叫び、みたいな」

「叫び?」

「悲しくて苦しくてでも声に出来なくて、その思いを天に向かって手を伸ばして叫んでいる、そんな感じ」

その学生の言葉に紗江子は胸が詰まるような感覚を覚えた。こんな事を言われたのは初めてである。


<続きは「羅刹の囁き Ⅴ」本編にてお楽しみください>

五.神崎(かんざき)百合香(ゆりか)

      一.

 

ひんやりした手がおでこに当てられて彼女は目を開けた。

「まだお熱が下がらないみたいね」

そう言って母親は彼女の額から手を離すと氷枕を取り替えた。上気した顔で彼女が母の方を見ると母は優しく微笑んだ。

「大丈夫よ。お母様はずっとここにいますからね」

その母の声を聞きながら彼女はまたゆっくりと目を閉じた。夢なのか現実なのか、どこからか声が聞こえる。生まれた時から、いやきっと生まれる前からその声は彼女の脳裏に響くように聞こえる。

(ああ、どうしておまえなど生まれてきたのだ。邪魔な奴だ。おまえもおまえの母もどうして私の邪魔をする)

髪を振り乱した鬼のような形相をした女が追いかけてくる。

(怖い、怖い、怖い)

彼女は恐怖のあまり必死で逃げる。走って走って走って走り続ける。だが物凄い勢いで追い掛けてくる鬼に終には追いつかれてしまう。捕まる――そう思った時に現実に引き戻される。汗をびっしょりとかいた彼女のベッドの脇に置いてあるチェアーで母が転寝(うたたね)しているのが見えた。

「お…母様」

彼女が小さな声でそう呼ぶと母はうっすらと目を開けた。

「あら、眠ってしまっていたのね。どうかしら、お熱は下がったかしら」

母は額に手を当てて首を捻る。

「まだあるみたいね。もう一度先生をお呼びした方が良いかしら…」

「大丈夫よ、お母様。ごめんなさい」

「まあ、あなたが謝る事は無いのよ。お熱があるのは百合ちゃんのせいじゃないのだから」

そう言いながら母は彼女の頭を撫でた。彼女――百合香は今年七歳になる。本来なら小学校へ上がる年なのであるがまだ一度も学校へは行っていない。生まれつき身体が弱く病弱な彼女は一年の大半をこの部屋の中で過ごしていた。保育園にも幼稚園にも通ってはいない。時折、窓の外を通る同じ年頃の子供達の姿を見て羨ましく思ったりするが心配性の母にその事を口にした事は無い。

「ごめんなさい、私が丈夫な身体に産んであげなかったから」

母はいつもそう言った。

「お母様…鬼が…鬼が追いかけてくるの」

「鬼?まあ、怖い夢でも見たの?きっとお熱があるからそんな夢を見るのね」

「夢…?」

本当に夢なのだろうかと百合香は思う。あの鬼の夢を一体何度見た事であろう。

 娘が再び眠りに就くのを見届けて母は部屋を出た。娘の言葉が頭に残る。彼女もまた同じような夢を見た事があったのである。初めてその夢を見たのはこの家に嫁いで来たその日であった。夫と初めての夜を過ごしたその朝、彼女は耳元で何かが囁くような声を聞いた。夫が何か言っているのかと思って見たが隣にいた夫はスヤスヤと眠っていた。気のせいだったのかともう一度眠りに就いた彼女の脳裏にその声はいきなり大きく響いた。

(何をしに来た!私の邪魔をするな!)

慌てて起きようとすると金縛りにあったように全身身動き出来なくなった。

(た、助けて…!)

恐怖のあまり彼女はそのまま気を失った。そうして夜明けと共に目が覚めた。夫の身には何も起きなかったようだ。昨夜の事はなんだったのだろ。夫に話してみたがきっと疲れていてそんな変な夢を見たのだろうと言われた。実際、昨日は大変な一日であった。夫の家はこの辺りでも有名な旧家で元華族という家柄である。この家は鹿鳴館をモデルにして造られたというほどのお屋敷でもある。最初、結婚式もこの家でという事になっていたが招待客が増え過ぎてホテルでする事になった。式には各界の名だたる人物が列席していた。彼女も裕福な家で育っていたが招かれた人物の顔を見て家柄の違いと言う物をつくづくと感じ身が縮まるような思いがした。夫は何も気にする事は無いと優しくしてくれたが居心地の悪さは拭えなかった。なのでそんな思いからそう言う夢を見てしまったのかもと思えなくも無かった。それからも何度となくそんな夢を見たがやはり、この家を訪ねてくる面々の肩書きや家柄に臆してしまう自分の心がそんな夢を見せるのだと彼女は思った。それが娘の百合香も同じような夢を見るという。これはどういう事なのであろうか。自分の中にある引け目のような物が子供にも移ってしまうのであろうかと彼女は心を痛めた。

 今日は少し気分が良い。朝食を済ませると百合香は自分の部屋の窓から外を歩く同じ年頃の子供達を見ていた。みんなこの先の小学校へ通っている。百合香も小学校へ行くつもりだった。入学式の為の洋服を買って貰い、その服を着て両親と写真も取った。凄く楽しみにしていた。だが当日具合が悪くなって結局行けなくなった。

百合香は早産で生まれた未熟児であった。何とか命は助かったが生まれながらの心機能障害と言われ、長くは生きられないかもと両親は言われていた。それでも両親は娘の成長を願い大切に大切に育てていた。娘が小学校へ通えるような事は無いと思っていたが楽しみにしている娘が不憫で学校へ行く為の洋服を買い与え写真を取り、娘を喜ばせた。娘は他の子達のように走ったり、燥いだりは出来ない、少しの無理がその命を危険に晒してしまうかも知れない、とても学校へ通うだけの体力はあるまいと両親は思った。

小学校が始まって何ヶ月か過ぎた頃には百合香も自分はもうきっと小学校へは通えないのだと思うようになった。道行く子供達を自室の窓からそっと見る。そこに自分が混じっている姿を想像する。その中にいる百合香は元気良く飛び回っている。いつかそんな景色が現実になれば良いのにと心の中でそっと願う。だがそれが現実になる事は無く百合香の毎日は過ぎて行った。この日は十歳を迎える誕生日であった。百合香がいつものように窓の外の子供達を見ているとその中にいた男の子が百合香の方を見た。その子は百合香を見て微笑んで手を振った。百合香は思わず窓の下に身を潜めた。心臓がドキドキする、顔が火照っていくのが分かる。また具合が悪くなったのだろうか。

「百合香、今日のお誕生日のケーキだけど、」

話しながら入ってきた母が胸を押さえて座り込んでいる百合香を見て走り寄る。

「百合香!どうしたの、また具合が悪いの?」

「なんだか…ドキドキするの…」

「顔が赤いわ、ベッドに横になりましょう」

「はい」

母に促されるまま百合香は横になる。でもこの心臓のドキドキはいつもと違うような気がする。いつものように息が出来なくなるような苦しい感じがしない。

「ああ、どうしましょう。折角お誕生日なのに、今日はもうゆっくり休んでいた方が良いかしらね」

「お母様、大丈夫よ。今日のは、いつもみたいに苦しくないから。すぐに良くなると思うわ」

「本当?」

「ええ」

「それなら良かった。お父様がね、今日は特別なケーキを用意したって仰っていたわよ」

「お父様は毎年、特別なケーキって仰っているわ」

「それもそうね。でもね、私達にとってはあなたのお誕生日は特別なのよ。こうして毎年あなたのお誕生日を迎えられる事が何よりなの」

「いつも心配掛けてごめんなさい」

「何を言っているの。子供の心配をするのは親なら当たり前の事なのよ」

「でも、私が他の子のように元気で丈夫な身体だったらお父様もお母様もこんなに私の事ばかり気にかけないでもっと他に楽しい事いっぱい出来るのに」

「そんな事あなたが気に掛ける事では無いのよ。私達はあなたが私達の子供に生まれてきてくれた事を神様に感謝しているわ。あなたは私達の自慢の娘よ」

「お母様…」

「さ、もう休みなさい。あんまり無理をしてまた辛くなったら折角のお誕生日パーティが台無しよ。お父様も楽しみにしていらっしゃるのだから。今日は家庭教師の先生にはお休みして貰う?」

「大丈夫よ、お母様。お昼には良くなっていると思うから。それまではここでじっと休んでいるから。それに先生もお誕生日パーティに来て貰うのだもの」

「ああ、そうだったわね」

百合香の言葉に頷いて母が部屋から出て行くのを見送ると百合香はそっとベッドから出てまた窓の方へ行った。もうさっきの男の子はそこにはいなかった。でも百合香の頭の中には手を振っていた男の子の顔が何度も何度も浮かんでその度に胸がドキドキするような気がした。そしてそれがいつもの発作のせいではない事も分かった。


<続きは「羅刹の囁き Ⅵ」本編にてお楽しみください>

最終章 

封印

    

      一.

「ただいま、おばあ様」

大学を卒業後、真理子は中学校の教師となった。

「お帰りなさい、遅かったのね」

「うん、もうすぐ期末試験だから。補習とかもあるし。新米教師だから覚える事いっぱいで」

真理子と祖母は吉岡とその妹の美帆のお陰であの家にとり憑いていた得体の知れない物の呪縛から解き放たれ、その後間もなくあの家を出て二人でマンションで生活して既に三年が経つ。祖母は、最初は祖父と離婚も考えていたようであったが結局離婚はしなかった。祖母は今でも祖父が真理子の母、紗江子とあんな関係になった事を許したわけではない。時が隔てようとも祖母の心にはその時の傷は未だに癒えないまま残っている。それでも祖母はそんな事になった一因には息子を盗られてしまったという歪んだ目で嫁を見ていた自分の態度にもあったのだろうと言った。冷たい仕打ちをしたのも事実である、それによって祖父が紗江子に同情してしまったのだ。原因の一因を作ってしまったという思いがあるのだろう。それに祖父もあの家の何かに魅入られていたのかも知れないと。真理子と祖母は祖父に一緒にあの家を出て生活しようと言ったのだが祖父は首を縦に振らなかった。どんなに説得しようとしても頑として受け入れなかったので結局は真理子と祖母だけが出る事になった。それでも祖母が祖父と離婚しないでいるのは、祖母はまだ祖父の事を思っているのかも知れないと真理子は思う。愛しているからこそ許せなかったのだろう。真理子はまだそこまで愛せる人間に巡り会った事はない。それでもそんな祖母の気持ちが少しは分かるような気がする。それにあの家を出た祖母はとても穏やかで人に酷い仕打ちをするような人間には見えない。やはり何かがとり憑いていたのだろうか。正直なところ真理子も分からない。あの子供の鬼も本当にいたのかどうかさえも。全ては空想の産物だったような気さえする。あの家を出てからは一度も鬼は出てこない。夢遊病のような症状も無くなり記憶が欠落するような事も全く無くなった。

 母の死を目の当たりにしたショックから作り出した妄想に過ぎなかったのではないか。でも吉岡や美帆には何か感じるところがあったようだ。

「ただいま、お母さん」

真理子は自室に入り、着替える為にクローゼットの扉を開いた。そこには亡くなった父が描いたという母のあの等身大の絵が置かれている。祖母の事を考えて敢えて目に付くところに置かないようにしている。絵の中の母は相変わらずとても美しい。こちらを見て笑っている母はとても幸せそうに見える。この笑顔はきっとこの絵を描いていた父に向けられたのであろうと思う。父の事は全く記憶に無い。ただ、祖母がずっとしまってあった父の写真をあの一件の後で見せてくれた。とても優しそうな感じがした。

真理子が覚えている母はいつも泣いていた。母は何故自殺したのだろう。祖父との事で自責の念に駆られたが故だったのだろうか。母の事を思い出した真理子は母との思い出も蘇った。母はいつも優しかった。美しい母が真理子は自慢だった。幼稚園に行くとみんな真理子の母を褒めた。母は心の弱い人だったのかも知れない、それでも例えどんな事があったとしても母が真理子を置いて自らの命を絶つとはどうしても信じられなかった。母はいつも「真理子がいる限り私は生きていけるわ」とそう言っていた、なのに――

――私はあの声には逆らえないの――

そう言っていた母のあの言葉は、あれはどういう意味だったのだろう。あの声とは?母もあの家の何かにとり憑かれていたのか。

(お母さん…)

母ともっと色んな話がしたかった。父と母はとても愛し合っていたと祖母は言った。その母がどうして祖父と。どうしてそんな事になってしまったのか、真理子には理解出来ない。きっとこれから先もどんなに愛する人が出来ても理解出来ない気がする。

「お母さん、どうして?」

絵の中の母は微笑んだまま真理子を見る。

「お母さん、私にもいつか愛する人が出来るのかな。お父さんとお母さんが愛し合ったように」

そう言いながら真理子は母の肖像を指でなぞる。愛は時に人を狂喜へと駆り立てるのだろうか。そう思うと真理子は誰かを愛する事が怖くなる。

「真理子、食事の支度が出来たわよ」

祖母の呼ぶ声に真理子はクローゼットの扉を閉めた。

「はーい。今行きます」

「学校はもう慣れた?」

食事に箸を進ませながら祖母は真理子にそう尋ねた。

「まだまだ、相手は人間だからね。予想外の反応とかあるし、暗中模索って感じ」

「そうなの、大変?」

「うん、大変だけど楽しい。毎日が色んな事の発見。なんか凄く新鮮な感じ。私が中学の頃のとは全然違う感じがするのよ」

「でも生徒の親御さんには色んな方がいらっしゃるでしょう」

「うん…」

祖母の言葉に真理子は伏し目がちに頷いた。

「どうしたの?何かあった?」

「実はね、今日、一緒に入った先生が辞める事になったの」

「まあ、どうして?」

「ちょっとノイローゼみたいな感じになっちゃって…」

「どうしてそうなったの?」

「生徒の親御さんに色々言われたらしくて…悪ふざけしていた生徒を一度注意してからその生徒の母親が色々難癖つけてくるようになったみたいで。最初は彼女もそれ程気にしていなかったのだけれど、家にまで毎日電話が掛かってきたりとか、学校に押し掛けてきたりとかで段々と精神的に追い詰められていったみたいなの」

「そうなの…」

「私、悔しい」

「真理子?」

「全然、気が付いてあげられなかった。力になってあげられなかった。どうして助けてあげられなかったのかって。机だって隣だしもっと注意して見ていれば分かった筈なのに。ううん、本当は彼女の言動が少し変だなとは思っていたの。でも、毎日する事がいっぱいあって…朝起きた時には今日こそは話を聞いてあげようって思っていたのに、帰る頃になったら明日でも良いかなって先延ばしにして…結局何も聞いてあげられないまま日が過ぎていっちゃって。今日ね、彼女、教室でヒステリー状態みたいになって、授業の途中で飛び出してトイレに閉じ篭って出てこなくなって。先生方みんなでなんとか外に出したのだけれど酷く怯えていて、そのまま救急車で病院に運ばれたの。それで帰る時に彼女の復帰はもう無いだろうって校長先生が…私がもっと早くに話を聞いてあげていたらこんな事には…」

「真理子だってまだ先生一年生なのだから、人の事にまで気が回らないのは仕方が無いと思うわよ。あんまり自分を責めないで」

「でも、悔しい。どうしてこんな事になったのかって。初めて会った時はとても明るくて優しい人だったの。教師って職業に熱意もあって良い先生になりたいって言っていたのに。あんな人がどうしてここまで追い詰められなければいけないのかって、今の教育現場ってなんかおかしい気がする。みんな生徒の親の顔色ばかり伺っている感じがして」

「真理子は大丈夫なの?」

「私は…そうならないように踏ん張る。何か変えていかなきゃいけないって思うし。二度と彼女のような人を出したくないと思うから。我侭な生徒にも理不尽な親達にも負けたくない。道理が通らない世の中なんだって生徒に思わせたくない。生徒と一緒に私も成長していきたいと思っているわ」

「そう。でもあんまり気負い過ぎちゃ駄目よ。あなたはなんでも自分で背負ってしまうところがあるから」

「分かっているわ。ちゃんと手を抜けるところは抜くようにします。それに私には何かあったら相談出来る頼りになる友達がいるから」

「瑞樹ちゃんや杏奈ちゃんには会っているの?」

「うーん、最近はあんまり。みんな仕事忙しいから。でもちゃんと連絡は取り合っているわよ」

「そう、なら良かった。でも真理子とこんな風に教育現場の話をする日が来るなんてね。あなたがうちに来たのはついこの間のように思えるのに。早いものね、今のあなたの姿を見たら大祐も紗江子さんもきっと喜ぶでしょうね」

「おばあ様…」

目の前の祖母は以前の祖母とはまるで別人のように思える事がある。顔つきがまるで違って見える。こういうのを憑き物が落ちたと言うのだろうかと真理子は思った。以前なら絶対口にしなかった母の名前を口にする事も少なくない。そして祖母の目から見た真理子もやはりそうなのだろうかと思う。瑞樹や杏奈、それに吉岡のお陰で今の暮らしがあるのだと感じる。本当に大切な友達達だと真理子は改めて思う。


<続きは「羅刹の囁き Ⅶ」本編にてお楽しみください>